tekitou’s diary

とても雑多な記事。オタク事。

親から離婚予告を受けたので家族を振り返る

 

広大なネットの海の端っこで、世の中にありふれた両親の離婚という個人的一大イベントを、せっかくなので気持ちの整理も兼ねてロングロング自分語り。

 

 

このご時世、珍しくとも何ともない離婚。

とはいえ家庭はひとりひとりにとって大きな意味を持つコミュニティ。

家庭に怨恨を持つ人も感謝の念を持つ人も様々、当たり前のように存在するから意識してないだけで、そんなに執着ないぜって人はいないんじゃないかな?という持論。

私は、親を恨んでいる部分を否めないが、自分を見捨てずにいてくれたことに感謝もしている。ありがちなやつ。

 

父は批判家で何かを褒めることはほとんど無く、テレビを見ても「やらせくさい」とか「わざとらしい」とか九割は否定的な意見を言うので、子供心に一緒に食卓を囲むのはちょっと、いやだいぶ憂鬱だった。

おかげで私はすっかり捻くれた見方を覚えてしまったし、父はそんなふうに他人の感情を気にしないので、好きなものは否定された。私はオタクは隠れるものだと学んだ。

 

私は片付けがとことんできなくて、何度叱られてもできなくて、ちなみに今でもできない。父は年に一回くらいの頻度で怒鳴りながら私の部屋を掃除した。そういう時は本当に憂鬱だった。

 

さらに長女で初めての子供だから、しっかり躾けられた。本気で叱られるときは叩かれたし、外に放り出されて鍵を掛けられた。今時は虐待だと炎上しそうだが、それの是非は家庭に依るのだと思う。

 

 

母は常に薄幸オーラを纏っていた。

キャラの濃い父の陰に隠れていたがやっぱりどこかデリカシーはなく、子どものへたくそな感情の発信を、受信するどころか叩き落してばっさり否定したりしていた。

 

そんな母はさる正月、私が高校生、次女が小学四年生、末っ子の弟が幼稚園に上がった春休みに実家に帰省すると父の所へは戻りたくなくなってしまい、そのまま別居生活がスタート。

そんな母の失態は、鍵もなにも掛かってないただのノートに、父の浮気疑惑についてや同居する父方の祖父母など誰にも言えない、それこそ子供には口が裂けても言えないような現環境への不満を書き連ねていたことだった。

 

そして更なる失態は、衝動的に始まった別居ゆえに携帯のサブ機を自室に置いて行ったことだった。やっぱりパスワードもなにも掛かっていないただの電子記録には、父じゃない男とのツーショットややりとりが記録されていた。

書き出すと、オイオイ……って感じがすごい。

 

 

さて時系列はめちゃくちゃだが、両親の別居が始まる数年前、私が中学校に入学して一か月。両親は私が学校でいじめを受けていることに気づいていた。

親に学校生活のことを訊ねられてもしばらくは「学校たのしいよ、〇〇ちゃんって友達もいるし~」と嘘ではないが本当でもないごまかしをしていた私だったが、とうとう泣きながらいじめられていることを打ち明けると、頷きながら相槌を打っていた父は告げる。

 

「明日学校に行ったら、置いてある荷物を全部まとめて持って帰ってこい。」

「もう行かなくていい」

 

マジかよ、と思った。

母も、娘がいじめを受けている事実を受けて辛そうな表情をしていたが、父の突飛な提案に反対することはなく同意した。

 

マジで?と思った。

てっきり「もう少し頑張ってみない?」って諭されるものだと思ってた。

父はこの時既に、中学一年時の成績は内申に影響しないので、ここから一年間不登校で成績がどうなろうが高校進学に問題ないと判断していたっぽい。しびれるね。

そんなことがあり、いじめられていることを告白した次の日には、私は夏休み直前まで荷物を何一つ持ち帰っておかなった男子小学生みたいな量の教科書やらテニスラケットやらを持って帰りの通学路を辿っていた。

中学校に入学して一か月とちょっと。五月でも既に夏の暑さがやってきていて、学校は山の上だったから急な坂道を下る。木陰の涼しさとコンクリートの妙な熱のアンバランスさに挟まれて最後の下校。

「もう通わなくていいんだ」という喜びや安堵の一方で、胸の内を占める、やや喪失感めいた清々しさが今でも記憶に残っている。

 

 

父は非常に顔が広く、他所に転校できるよう人脈と持ち前の弁舌をフル活用して環境を整えてくれた。そのコミュニケーション力は私には受け継がれなかった。

そうして私が無事に高校へ進学したのち、母が実家に帰省したまま戻って来なくなったときは、毎朝私と妹弟を起こし、朝ご飯を作り、お弁当を用意してくれた。夕方には妹弟を保育園に迎えにきた。

お母さんは心の病気になっちゃったから、三ヵ月くらいおじいちゃんおばあちゃん家でお休みするんだよ、と伝えられた。そのまま、三年が経った。父の住む家には二度と帰ってこなかった。

 

 さて母は同世代と比べても若く見え、そんな母が授業参観に来るたびに私は自慢だった。

さらに、つんと澄ました顔つきからは想像できないほどユーモアがあり、さらに絵心まであったので誰かを楽しませることが得意だった。

手先が器用で、手提げや上履き入れ、フェルトで作った手作りのキャラグッズなどなど、多くを自作した。そのクリエイティブさは私には受け継がれなかった。

父が怒り狂うとなんとか宥め、家の外に放り出された私を案じて迎えに来てくれたりした。飴と鞭の飴。

 

他人の気持ちを慮るという行為の優先順位が低い父だったから、母もまた父についていくことがしんどかったことだろう。

 

 

生んでくれと頼んでないとか、そんなそもそもで幼稚なことは言わない。

子どもが親を選べないように、親もまた子どもを選べない。

だとするなら、親はよくやってくれた、と思う。

私が親になったとして、子供が100%望む子育てはしてやれないだろう。親だって、残念ながら人間だ。

そう思うと、まあ実は不満も相当あるけど、人として尊敬できる部分も知っているし、ありきたりだなんだかんだ好きなのだ。親が。 家族が。

 

だから長女である私が先んじて離婚することを聞かされた時、「離婚後はもう家族全員で集まることはない」と宣告された時、想像はついていたはずなのに、父と母の反りが致命的に合わないとさんざん思い知らされたはずなのに、涙ぐんでしまった。この記事を書きながらまた、涙が滲んでいる。

母と父は居住を別ったまま、我々子供組は二つの家を行ったり来たりしていた。

半年に一回くらい、誰かの誕生日や入学式には家族で食卓を囲む。その時はテーブルゲームをしたりして、もれなく爆笑。そんな宙ぶらりんの家庭を七年くらい続けてきた。

半年に一回。それが我が家のちょうどいい距離なんだと思っていた。でもそれも、無くなる。それが一番つらくて、悲しい。

 

別居が始まってとっと離婚してくれればよかったのに。綺麗な思い出のまま引き裂かれるのが一番痛くて苦しい。

最初から離婚するつもりで別居したのなら、家族をむりやり続けないで欲しかった。楽しかったこの七年も騙された気分だ。姉弟たちも同じように考え、ショックを受けるだろう。

 

長女として、最も懸念しているのは姉弟たちのショック。

この先の人生においてトラウマになりかねない。妹は十八歳だというのにまだ精神が成熟していないからひねくれそうだし、末の弟は十四歳。親権はどうなるのだろう。

分からない。分からないけど、聞かなきゃいけない。でもすべてうやむやになってしまえと願ってしまう自分が居る。

離婚しようが、また家族で集まりさえできるならいい、でもそれは否定された。両親はきっともう顔を合わせる事すら苦痛なら。いびつな家庭の形を普通だと疑っていない弟にとっては受け入れがたいだろう。親権は。脳みそのあちこちでいろんな思考が立っては成り立たないまま打ち倒され、同じ問答がループする。

 

 

そしてもし今これを読んでいるあなたが、離婚を考えている親なら。

子どものために仮面夫婦を続けようなどと思わないで欲しい。

子供が幼いのに離婚だなんて可哀そうだ、なんて思わないで欲しい。今まで疑わなかった家庭が偽りだと知らされた時の方がよっぽど可哀そうだ。

それでも家庭を続けるというなら絶対に隠し通すことだ。

離婚を打ち明けるときは最初から離婚を考えていたと伝えないことだ。

 

 

私の人生は、両親の出会いからしてボタンを掛け違えていた気がしてならない。