「精神が成長した」というより「感情が鈍麻した」
言いたいことはタイトルだけ。
平成と令和、合わせて“平和”!
画期的な思い付きだと閃いたその三十分後に平成と昭和でも“平和”になることに気付く。
日本全国その話題でもちきりだろうから私は書くまいと思っていたけど、当日を逃してから年号を話題に出すのが一番格好悪いので書いとこ。
令和、今時な感じだしかっこよいね?昭和の昭和感はすごい。平成の平和感もすごい。令和は“へいわ”とほとんど変わらないのに頭文字が“れ”に代わるだけで近未来感というかクールな感じ。
とりあえず500年後の学生は「昭和と令和、どっちが先だっけ~!?」と歴史の授業で頭を抱えるだろう。
多分語呂は「昭平令(しょうへいれい)」とか。
月のものが悪化したので豆乳教に入信した
眠くなる程度と数回の腹痛で済んでいた生理痛が最近、頭痛も伴うようになってきた。
平常、私は死ぬほど健康体という矛盾を内包した人間なため痛みにまっったく耐性が無く、些細な体調不良でも途端にグロッキー状態と化してしまう。そんな人間に月イチで数日にわたり感謝の頭痛デーが開催される、これはとってもゆゆしき事態。
頭痛持ちの人マジ、こんな状態異常が通常ステータスとか嘘だろ、信じられない、本当に尊敬する。
さて、ここ一年ほどではあるが私は週二で豆乳を飲んでいる。理由は単純、超うめえ。麦芽もバナナも紅茶もウマーイ!
そして豆乳なんて字面はあからさまに体に良いのだ。がぶ飲みだ。
そしてふと気づく。……なんか、生理前/中に豆乳飲んだら生理痛楽じゃね?
正直、豆乳によって生理痛が軽減されるエビデンスは自分の中にない。
ググったら豆乳はやっぱり生理痛に効くらしいが、たまたま睡眠栄養休養が足りてたとか、そういう可能性もある。プラシーボの可能性もある。
それでもやっぱり効いてる気がする。この記事を書いてる今日も豆乳飲んでから頭痛が軽減されたし、部活も、恋も、受験も上手くいく!そんな販促漫画がありましたね。
ブレイブストーリーのラストを受け入れられぬまま
小学生の頃、父親にブレイブストーリーを買い与えられた。映画化する前のことだったと記憶している。
「推し」じゃねえ「運命」なんだ
愛する別次元の人の事を「推し」と呼ぶ風潮。
よそ様が遣う分には気にしないけどいざ己が遣うとなると凄まじき違和感に阻まれる。
理由は単純。別に「推し」てないのだ。
誰かに向けて「イイっすよこの子」と言いたい訳じゃない。布教したいわけじゃない。アイドルな子だったらそれでも良いのだろうが、生憎アイドルで好きな子には今だ出逢っていない。
そして“好き”にもカテゴリがあって、ファン、愛、殿堂入り、神聖化の4つがある。
ファン。いわゆる“推し”。追いかけている作品やグループの良いな!と思った人。一緒にペンライト振ろうな。
愛。この感情を持つか否かは一般オタクか深みオタクかを線引きする。越えたならあとは怖れるものはない。
殿堂入り。想い出の作品の中でも特に好きな人。初恋を思い出す感覚にもなる。そして気づく。俺、まだあいつのこと……。
神聖化。運命。その御姿を直視できず、
名を呼ぶどころか、
その人の名を打ち込むことすら憚られる。
一つ誤解しないでいただきたいのは、このカテゴリ分けは、“好き”のベクトルの違いでありランク付けではないと言うこと。
好きに一位も二位も無い。等しく鎮火し再燃する。落ち着いた好きの感情は認識の外にあるだけで、無意識下でくすぶり続けている。
薪が焼べられればもちろん、なにげない風に煽られれただけでもたちまち火炎に変わる。
一緒に炎上しよう。
灰になって風に乗り、空を舞ってあの人のもとへ、ハルケギニアのルイズへ届け。
使ってるイヤホン
平成の終わりにはきっと「オトナ帝国」を
平成っていい響きだ。
昭和の昭和感もすごい。
きっと平成の次の年号が昭和だったら、ピンと来なかっただろう。
ずっと平成でいいじゃんね?
平成が過去になるのは、というか「昔の年号:平成うまれの人間」になるのが嫌だ。
かっこよく老いたいが、どうすればかっこよく老いることができるのか。
既に老いることにシフトしている。そんな20代。
人に譲って生きる人間は「自分」なんてない
Twitterではよく「自分の生きたいように生きていい」「義務よりも自分が第一」「嫌なことはキッパリ断れ/やめてしまえ」といった趣旨の漫画や呟きが流行る。めちゃくちゃ多い。
それらを読むたびに思うのは、そのように自分の生きたいように生きたら迷惑がかかるということ。
それは気にしい人間にとって望まない生き方だ。生きたいような生き方でもない。
内心嫌でも続ける。途中で辞める事は、それ以上のストレスになりうるのは想像に難くない。
「中途半端な自分」「成し遂げられなかった不甲斐なさ」
そしてなにより「他人に迷惑をかけたこと」。自身の最もおそれる事態だ。
万人と上手く行く方法なんてないのに、つい他人に気を遣って生きる日々のなんと生きづらいことか。